ロングトレイル。果てしない長距離を歩き続けるその旅は、どこか遠い世界のようにも思えるが、「ピークを目指すわけでも、速さを競うわけでもない。ただ、自然のなかで暮らすように歩き続ける」ーーそんなロングトレイルの魅力を体現しているのが、プロハイカー・斉藤正史(さいとう まさふみ)さんだ。これまで22,000km以上を歩き、世界各地のロングトレイルを踏破してきた彼が、次の舞台として選んだのが、アメリカ・ウィスコンシン州を走るアイスエイジ・トレイル。
第一回では、斉藤さんが歩き続ける理由と、その根底にある「がんばりすぎない」歩き旅の思想に迫る。
(2025年取材)
生涯をかけて歩き続ける。プロハイカー・斉藤正史という人
ロングトレイルハイカー・斉藤正史。これまでに歩いた距離は22,000km以上。アメリカ三大ロングトレイルを踏破し、日本人で二人目のトリプルクラウナーとなった人物だ。ニュージーランド、オーストラリア、台湾、日本国内のロングトレイルへと舞台を移しながら、歩くことを“仕事”として続けている。
写真提供:斉藤正史
その肩書きから想像されがちな「冒険家」や「記録挑戦者」というイメージは、本人の感覚とは少し違う。斉藤さんにとって歩くことは、特別なイベントでも、非日常でもない。あくまで「生活の延長」にある行為だ。
「歩くのが好きで、気づいたらずっと歩いていただけなんですよね。ロングトレイルは、僕にとって“生活すること”と同じなんです」
テントを張り、食事をつくり、眠り、また歩く。その繰り返しのなかで、自然と向き合い、人と関わり、日々を積み重ねていく。そこに無理な演出はない。
写真提供:斉藤正史
「ロングトレイルは自由でいいんです。その自由さと歩くことの魅力を伝えたいんです」
彼が拠点とする山形県では、蔵王でのトレイル整備やガイド、地域と連携した活動にも携わっている。歩くだけでなく、道を残し、文化として根づかせること。その視点は、海外のロングトレイルを歩いてきた経験から自然と育まれてきたものだ。
「歩いて終わりじゃなくて、その先に何が残るかっていうのは、やっぱり考えますよね」
もともとはサラリーマンだった斉藤さんだが、それは大げさな決意というより、自然な選択の積み重ねに近い。斉藤さんの言葉には、達成や記録よりも、“続いていくこと”へ重心が置かれている。
「別に命懸けのことをしたいわけじゃなく、無理もしすぎず、できるだけ長く続けられる形で歩きたいんですよね」
ピークを目指さない“歩き旅”── This is why we hike
「山頂に立つこと自体は嫌いじゃないですけど、ロングトレイルはそこじゃないんですよね。道を歩く時間や人との出会い、寄り道だって楽しい」彼がなぜ“ロングトレイル”にこれほどまでに魅了され、歩き続けるのか。それは、速さや強さを競うためではなく、自然のなかを歩く理由そのものを問い直す言葉でもある。
「自然のなかで生活する、っていう感覚が一番近いかもしれないです。毎日歩いて、食べて、寝て。それを繰り返すだけなんですけど、毎日歩き続ける“リズム”がすごく心地いいんです」
写真提供:斉藤正史
テントを張り、自炊をし、翌日の天気を見て歩く距離を決める。距離を稼ぐことよりも、調子を崩さないことを優先する。に、歩く時間が必要だという。
「今日は天気悪いなと思ったら、無理しないでやり過ごす。距離も、無理に伸ばさない。計画に余白を残しておかないと、長くは続かないですから」
斉藤さんにとってロングトレイルは、挑戦であると同時に“余暇”でもある。日本にいると、どうしても仕事や役割に追われてしまう。その忙しさから距離を取るために、歩く時間が必要だという。
写真提供:斉藤正史
「ロングトレイルはご褒美というか、忙しい日常を一回リセットできる。日本に帰ってくるといつもとにかく忙しいんです。だから、ロングトレイルは忙しさから逃れられるせっかくの大事な時間。だからこそ、頑張りすぎない。でも歩くために働いてもいるから、一体どっちが自分の主となる生活なのかもうわからないですね(笑)」
余白があるからこそ、偶然の出会いや、思いがけない景色に出会える。斉藤さんの歩き旅は、常識に縛られない。効率や正解よりも「楽しい」という感覚を優先することが斉藤さんらしさでもある。
氷河が削った大地を2か月かけて歩く。アイスエイジ・トレイルという新たな舞台
今回、斉藤さんが選んだ舞台は、アメリカ・ウィスコンシン州を走るアイスエイジ・トレイルだ。アメリカのナショナル・シーニック・トレイルのひとつで、全長約1,200マイル(約1,900km)。最終氷河期に形成された地形をたどる道である。「これまでシーニックトレイル全踏破を目指して歩いてきて、残りは後5つ。そのうち一つはすごく短いからいつでも良い。残る選択肢は4つあるけど、どれもめちゃくちゃ長いんですよね」
画像:National Park Service(パブリックドメイン)
そのなかでアイスエイジ・トレイルを選んだ理由は、いくつかある。
「距離的にビザを取らずに歩ける日数のルートが2つあって、そのうちのひとつがアイスエイジでした。今年(取材時の2025年)は割と忙しくて、準備する時間もあまりしっかり取れない状況だったので、アップダウンが少ないこのトレイルがベストチョイスかなと決めました」
氷河が削ってできた丘陵地帯は、日本の山とはまったく性質が違う。都市部から農地、州立公園、森へと、環境が次々に切り替わっていくのも特徴だ。
写真提供:斉藤正史
「自然と人の暮らしが分断されてなくて、コミュニティを通過していく構造なんですよね。人と自然がつながるトレイル、っていうのはすごく面白いと思いました」
一方で、マーカーが設置されていない区間が全体の半分近くを占めると想定していて、ナビゲーション能力が求められるかもしれない。私有地との境界やキャンプの可否など、デリケートな判断も多い。未開通区間もある。
「簡単そうに見えて、実は気を使うトレイルです。ちゃんと繋がるのか。どんな道になっているのか。今まで歩いたトレイルとは違って、今回は行ってみないとわからないことも多いですね。でも、だからこそ“楽しもう”という感覚がより強くなる気がしています」
写真提供:斉藤正史
“なんでもいいんです”。がんばりすぎないための装備観と、いい塩梅をみつける
斉藤さんの装備観を一言で表すなら、「いい塩梅」だ。軽量化は否定しない。けれど、それが最優先ではない。「ロングトレイルは僕にとって、生活することと同じなんです。だから装備も、生活を支える道具であればいい。長期間生活するわけだから、旅を続けるには快適さが鍵となる。軽ければいいってわけじゃない。扱いやすさとか、乾きやすさとか、自分が快適でいられるかどうか。そのバランスが大事だと思ってます」
写真提供:斉藤正史
今回のアイスエイジ・トレイルは、季節が夏から冬へと移ろう時期。暑さ、寒さ、湿度、ダニや毒草といった環境要素が入り混じる。バックパックの中に入るだけの限られたウェア・道具で、これらの変化にどのように対応していくか。なかなか難しい選択だ。だけど、斉藤さんは意外にもあっけらかんとしている。
「結局のところ、実はなんでもいいんです。最新のものじゃなくたっていい。ちゃんと休めて、ちゃんと歩ければそれでいい。正解は人それぞれですけど、がんばりすぎない装備っていうのは、すごく大事だと思います」
オーバースペックを避け、無理をしない。無理をしない歩き方、無理をしない装備。我慢比べじゃないですからね、と斉藤さんは笑う。やっていることはものすごいことだけれど、肩の力が抜けた「余裕」が、結果的に長い距離を歩き続けられる術なのだ。
次回は、その歩きを支えてきた具体的な装備にフォーカスする。1,000kmを超える道のりを歩くために、斉藤さんはどんなウェアを選び、どう組み合わせてきたのか。リアルな経験に基づく“我慢しすぎない装備”の話を聞いていく。
PROFILE
2012年より日本で唯一のプロハイカーとして活動。2013年、アメリカ3大ロングトレイルを踏破し、日本人で2人目のトリプルクラウナーとなる。スルーハイク(単年で一気にルートを歩く方法)で歩いた距離は22,000km以上、地球半周を超えた。ハイカーとして歩くだけでなく、地元山形でトレイルを作る活動も行い、日本でのトレイルカルチャー普及に努める。
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■YLTクラブホームページ
Text:中島英摩
Photo:sguchi